絵画と共に、激しく燃え尽きた生涯、「ゴッホ」入門

ゴッホは、現在では世界中でもっとも有名な画家の一人だ。しかし、生前は報われることの少ない人生だった。

また、画家として特徴的なのが、ゴッホは生涯のうち画家として過ごしたのは37歳で亡くなるまで、27歳からのわずか10年間だったというこだ。その10年の間に、苦悩する人生をキャンバスに叩きつけるように精力的に創作し、また、そうするこでしか救われなかった人生でもある。

1、ゴッホの生涯

1853・・3月30日、「フィンセント・ファン・ゴッホ」オランダの地方の牧師の子の長男として生まれる

1857・・弟、テオ、生まれる

1869・・グービル商会入社。叔父の紹介で画商として働く。

1876・・同社、解雇。

1877・・書店で働きながら、神学大学へ入学のための勉強を始める。

1878・・神学大学、試験に挫折。

1880・・画家になることを決意する。

1881・・従姉妹のケイに求婚するも失恋

1882・・シーンの出会い同居後翌年別離

1886・・パリのテオのアパートに住み着き、コルモンのアトリエに通う。

1888・・フランス、アルルへ。9月、「黄色い家」を借りる。12月23日、「耳切事件」で病院に収容される。

1890・・1月、「赤い葡萄園」が売れる。7月27日ピストル自殺を図り、29日死亡。

1891・・1月、テオ、死亡。

2、ゴッホの人となり

ゴッホは、良い意味でも悪い意味でも非凡だった。何かに夢中になると、なりふり構わず集中する特徴がある。画家生活10年の間に、油絵と水彩画で約1,000点、素描が約1,000 手紙などの書簡にも数多くの絵が残されている。

また、性格は感情が激しくに癇癪持ちで、協調性が足りず、結果的に人に受け入れられないことが多かった。友達も出来ず、出来たとしても、ちょっとした批判も我慢出来ないため、長く友人関係が続かない。思い入れが強すぎてストーカー紛いのとこをして、恋心も拒絶され、基本的にハートがナイーブなため、とことん傷つく。

1882年に出会った、売春婦をしていた幼子を連れた女性シーンとの出会いも、結婚まで決意するゴッホだったが、身内の反対やシーンの裏切りによって、同棲生活は失意のうちに1年で終わりを迎えている。

画家としても、プライベートと同じく、受け入れられず生涯売れた絵は一枚だけだった。生前名声を得、恋多き人生だったピカソとは対照的なゴッホの生涯だ。

生前、売れた唯一の作品
赤い葡萄園 1888

有名な「耳切事件」は同居を始めたゴーガン(ゴーギャン)との仲が決裂しそううになり発作的に起こした、自虐行為なのだ。

包帯をしてパイプをくわえた自画像1889

自殺の原因も、唯一の理解者で支援者であった弟テオとその家族の生活の負担に、自分がなっていることを自覚してのことなのだ。死の直前、泣きながらゴッホを抱くテオに「泣かないでおくれ、みんなのためにした事なのだから」と自ら言っている。

最期まで、せつないゴッホの人生だった。

3、ゴッホを生涯支えた、弟のテオ

ゴッホは極端な性格のため、身内との関係も上手くいかなかった。そんな中、弟テオだけは良き理解者であり続け、生涯絵描きとして目が出ず、稼ぎの無かったゴッホを援助したのだった。画家ゴッホを語る上でテオの存在は大きい。テオの支えがあったから、後世に残るゴッホの作品は生まれているのだ。生活面だけではなく、テオとの手紙での交流が唯一、孤独で沈むことの多いゴッホの心理面を支えたのだ。

そして、テオはゴッホの死の半年後に、まるで後を追うように亡くなっている。テオの人生においてもまた、他人が推測出来ない程、兄ゴッホの存在は偉大なものてあったのかもしれない。

4、初期の作品

画家を志した直後は多くの水彩画を描いている。その多くが暗い色調の絵だ。

ゴッホの絵は、10年の間にタッチや色調も変化し続けるが、初期の作品は、アルル時代の明るい色調とは全く違い、別人が描いたかのように色調が暗く、土着的で重々しい感じだ。

砂漠で網を修理する女たち1882

ジャガイモを食べる人々1885

心象画的ともいえる暗い絵だが、なんでもとことんやる主義のゴッホの絵は、人生と同じように、一生懸命なのに受け入れられない苦悩の中で生まれ、変貌しながら精力的に、描かれ続けて行く。

5、ゴッホの代表的な作品

代表的な作品、ひまわりシリーズは、感情の波が激しいゴッホの心の波が、高揚のピークの最中での作品であったのだろうと推測される。死の2年程前のこの時期、ろうそくの炎が消える直前に光を増すかのように、後世に残る名作を多作している。

「ひまわり」1888(連作)

「アルルの跳ね橋」1888

「花咲く果樹園」1888

「夜のカフェテラス」1888

「ローヌ川の星月夜」1888

など。

私もこのころの作品が好きだ。

6、生き急いだ画家としての10年

言えるのは、その時その時の自分の全てを、絵に注ぎ込んでいるということだ。そして、とくに最晩年の絵は、壊れそうになる自分の心が、狂気と紙一重の中で「描かせた」ものであり、また、「描かずにはいられなかった」のではないだろうか。

死の直前は精神を病み、療養生活で発作を繰り返す中でも、絵を描き続けている。絵を描いていることで正気を保ち、それが生きている証であるような・・・壮絶な悲壮な創作活動だったのだ。それでも、ゴッホにすれば唯一、絵を描いている瞬間だけ癒される、つかの間の平安だったのかもしれない。

それが、「絵画と共に、激しく燃え尽きた生涯」という、今回の記事のタイトルになり、私がゴッホに対して、感じることだ。

「フィンセント・ファン・ゴッホ」、この「フィンセント」というのは、「勝利者」という意味があるそうだ。ゴッホが人生の勝利者であったかどうかは、答えを保留するが、全力で突っ走り、まるで命を削るように、全力で生き切ったことは間違いないだろう。

「炎の画家」、正に命の炎を激しく燃やし、燃え尽きた生涯、それがゴッホの絵なのだ。

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nora

nora

シニア世代の自由人、趣味のオヤジバンド・野鳥写真・風景スケッチ等で西多摩方面に出没